昨日、この重箱を売ることにしたと書きました。
親しい友達がその記事を読んで「善水ちゃん、お母さんが亡くなった時、本当に後悔しないと思える?」とコメントをくれました。
それを読んだ時、少し考え込んでしまいました。うーん。
散々向き合って決めたことだったのに、なんでここで考えこむわたしがいるのだろうかと、向き合いました。
でもそのおかげで確認できたので、友達には心底感謝しています。
わたしは、この重箱を手放しても、絶対後悔しないと自分に誓えます。
なぜなら、祖母、母、私と続く代々のカルマを断ち切るためだと決めたから。
ブログには書けませんが、いろいろとある血筋なのです。それでみんな、母親の愛を求めて苦しんできました。
それを娘に引き継ぎたくないのです。断ち切ると決めたのです。
母が私に重箱を持たせたかったのは「自分が重箱をもたずに嫁に行ったらお姑さんに嫌味を言われたので、娘にはぜったい持たせたかった」から。
それって、愛なのでしょうか?
私はそれを愛だと思って重箱を譲り受け、大事にしてきましたが、よくよく考えてみると愛ではなく、「執着」だと気付きました。
お姑さんと、別れた夫(父)への怒りや悲しみがある意味恨みとなって執着になっていると思うのです。
本人はそんなつもりなく、娘に上等な重箱を持たせたかったと思っているかもしれませんが、根底には執着があるのです。
だとしたら、私はそんな怒りや悲しみの念が詰まったものを一生持ち続けるのはゴメンです。
それだけでなく、これは母がお金を払ったものではなく祖母に払ってもらったもので、そこにも、ここには書けないいろいろ根深いエピソードがあります。それも悲しいもの・・・。
やっぱり私は、この重箱を手放さなければいけないと再確認できました。
母からは真珠のネックレスとイヤリング、小粒だけどいくつかの金のアクセサリーを譲ってもらったし、気に入っている着物ももらっているので、母が将来死んでも、十分な形見の品があります。それも私が好きなものたち。それだけで十分です。逆に母が死んだら、この重箱があると余計に手放し難くなりそうでその方が強い。
その気持ちをしっかりと味わう必要があったので、友達がコメントをくれて気づかせてくれたんだろうなと、すごくありがたかったです。
そのくらいまでモノと向き合うことが大事なんだと、大切なモノこそじっくり深くたいわする必要性を感じました。
ご年配の方や、形見の品が多い方こそ、こうしたじっくりとねっちりとモノと自分と向き合うことが大切だと思います。その分時間がかかり大変かもしれませんが、モノに潜む様々な念があるモノこそ、しっかりと味わって、気づいてあげないとモノは離れないばかりか、もっとモノで溢れます。念のあるモノは新たなモノを呼ぶのです。
モノは生きていると、私ははっきり言えます。だって喋るから。本当です。
私は重箱にお礼を言いました。このことに気づかせてくれてありがとうと。
そうしたら「気づいてくれて安心した。これで新しい持ち主さんの元へ旅立てるから安心してね」と言ってくれました。
きっといい買取先が見つかる気がします。
これで良かったと、自分に誓えました。
Aちゃんありがとうね♡